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2005年10月25日

北海閑人『中国がひた隠す毛沢東の真実』

【書評】『中国がひた隠す毛沢東の真実』北海閑人著
空前絶後の失政明らかに

 「赤い皇帝」毛沢東の生涯は血にまみれていた。著者は本書において、一九三〇年代初頭、毛沢東の権力掌握の過程で生じた紅軍(後の人民解放軍)将兵大量虐殺事件から筆を起こし、毛沢東が指示した数々の粛清と統治のために敷いた密告と秘密警察制、大飢饉(ききん)を招いた失政の実態を明らかにしてゆく。

 そもそも著者は何者か。版元によれば、北海閑人は、中国共産党中央直属機関に長く勤めた古参幹部で、現在は北京在住のまま、香港のオピニオン誌「争鳴」の常連執筆者として、中国の現体制を批判する文章を発表しているという。北海閑人とはもちろんペンネームである。

 匿名の告発をうのみにするのは危険だ。しかし、匿名でなければ真実を語れないことも多い。ならば、著者の告発は信用できるのか。

 それを測る格好の材料がある。毛沢東が権力を掌握していた期間(一九五〇−七六年)に、どれほどの国民を死に追いやったかという問題だ。共産党は黙して語らず、ワシントン・ポスト紙は九四年に八千万人が死亡したと報じている。著者は、党中枢にいた者しか知りえない党首脳の発言を引用して、少なく見積もっても四千二百万人が、普通の死に方ではない形で亡くなったことを明らかにするのである。

 「文化大革命で二千万人が死に、一億人がひどい目にあった」(七八年の党中央工作会議での葉剣英副首席の発言)

 「一九五九年から六二年の(大躍進運動の)期間中に、全国で二千二百万人が“非正常死亡”した」(八一年の「歴史決議」草案を討議する会議における胡耀邦総書記の報告)

 このように、毛沢東の空前絶後の失政を、確かな資料や証言に基づきながら明らかにしつつ、著者の筆鋒は、毛沢東批判を封じ込めることによって、うそで固めた共産党の正統性を守ろうとする現政権へと向けられる。犠牲者である中国国民にこそ読んでもらいたい一冊だ。

中国がひた隠す毛沢東の真実
北海 閑人 寥 建龍
草思社 (2005/09/25)
おすすめ度の平均: 5
5 中国・アジア史の再考
5 北京在住・匿名言論人の告発。

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平林 靖敏『東京まちかど伝説』

『東京まちかど伝説』
 東京は歩いて見るべき街ではあるまいか。ページをめくるうちに、そんな気がしてきた。さる新聞社の写真部を2000年、定年退職した人が同年1月から2005年春まで、東京の街角を撮り歩いた写真集。

 1日に2万歩前後、週2回は歩いたのだとか。気負わぬ歩行のリズムを伝える撮影順の配列によって、すっと写された街角に誘い込まれる。一口に東京と言っても、実に様々な東京があるものだ。未来風の建築もあれば、北海道みたいな並木もある。祭りなどで人が集まる。逆に繁華街がふと無人になる瞬間も。ただし地に足の着いた、行き交う人々と変わらぬ高さの視線で見る東京は、意外な落ち着きを感じさせる。懐かしい雰囲気の建物が心をなごませる。何より今なお人のぬくもりが残っている。

 巻末に作家・森まゆみさんとの対談を収録する。弾む会話の端々に「この前通ってみたら、もう更地になってました」といった言葉が交じる。世紀の変わり目を挟んだ5年間の写真は、貴重な記録という意味を備えるわけだが、街歩きの視線で見た東京のよさがもう少し大切にされてよいのでは、とも思わせる。

東京まちかど伝説
東京まちかど伝説
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平林 靖敏
岩波書店 (2005/09/16)
売り上げランキング: 192,518

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笠谷和比古『武士道と日本型能力主義』

今週の本棚・新刊:『武士道と日本型能力主義』=笠谷和比古・著
 武士道の新しい見方を打ち出しているユニークな本だ。個々の武士が主体的で自立的であってはじめて、真の忠義は実現できるのだという。赤穂浪士がそれを示している。

 武士は主君の命に唯々諾々(いいだくだく)ではいけない。命を賭けて諫言してこそ、武士である。また主君「押込」が珍しくなかったが、これは暴君に対して家老・重臣たちが共同で抵抗し、強引に隠居させるものだ。

 吉宗が代表的だが、下級武士を奉行にまで取り立てて、「足高制」で高給を与えるという能力主義を採用していた。江戸末期には足軽や農民出身の勘定奉行がいたのだ。

 この江戸の武士道は明治以降は企業に引き継がれているのだが、今の企業はどうかと、武士道精神をもとに苦言を呈している。

武士道と日本型能力主義
笠谷 和比古
新潮社 (2005/07/14)
売り上げランキング: 16,162
おすすめ度の平均: 5
5 日本型能力主義人事を歴史的に析出
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野中郁次郎ほか『戦略の本質−−戦史に学ぶ…』

今週の本棚:五百旗頭真・評 『戦略の本質−−戦史に学ぶ…』=野中郁次郎ほか著
 ◇敵の弱みを知り自らの強みで打ち破れ−−五百旗頭(いおきべ)真・評

 長い日本の歴史において、戦争に敗れ他国に支配されたのは一回きりである。われわれはその得難い経験から学んでいるだろうか。答を持っているだろうか。何故あの大戦争をやったのか。何故負けたのか。

 かつてそれに答える共同研究が『失敗の本質』と題して出版された。もっとも踏み込んだ敗因研究だった。以来二〇年を経て、同じメンバーによる共同研究が本書である。

 日本軍は「真珠湾」での開戦について、事前に綿密なシナリオを描いて、不意を衝き、そのシナリオ通りに事を進めて成功した。「しかし、敵が目覚め、我の予想したシナリオとは異なる戦い方で対応してきたとき」、日本はそれを見据えて対応することができず、逆に「敵が描いたシナリオどおりの戦い方」にはめられた。本書はそのことを「戦略不在」という。

 戦略論にも二つの系列があるという。一つは、ジョミニに代表される静的な系統立った型を描き、それに沿って万全の準備をもって臨めば勝利しうると考える流派である。他は動的な実際戦の中での相互作用を重視するクラウゼヴィッツの流れである。「戦争は敵対する意志の不断の相互作用である」。日米戦争の例に戻れば、日本が自らのシナリオを描き先制したが、米国がそれを超えるシナリオをもって応酬してくると、もはや対応できないというのは、戦略を静的な自己完結性において捉え、「不断の相互作用」であることを見落す弊ということになる。戦略とはどこか高きにある立派な観念ではなく、戦争の実相への洞察でなければならない。

 戦力の大量集中による敵主力の撃破というジョミニ的思想はプロシャ参謀本部に生き続け、第一次大戦を導いたが、それは大量の無益な犠牲の山を築いた。それを学んだリデルハートは「間接アプローチ」、すなわち敵の強力な主力をたたくのではなく、予期されていない弱い部分を衝くことにより敵を攪乱し敵の戦いを困難にすればよいとの観点が浮上する。戦力全体では優越する敵に対しても、その局地的な弱味に対してこちらの強味をかみ合わせれば勝利は可能であり、局部の勝利は全局の勝利をもたらし得る。戦争は誠に微妙な陰影を伴っての相互作用であり、認識の争いでもある。孫子の「敵の虚を衝く」兵法が再重視しされ、ボーフルは「敵の精神的解体」を戦略目的とする。核時代の抑止とは相手の心理に作用を及ぼして、その反作用をコントロールする戦略に他ならない。政治と国民感情まで組み込んでの心理劇という局面から、戦闘における武器や地形のささやかな優位を利する作戦指揮の局面に至るまで、重層的な連動の中でのダイナミズムとして今日の戦略論が語られている。

 本書は戦略論の展開をひもときつつ、新が旧を、もしくは小が大を制するような歴史的逆転をもたらした戦略ケースを尋ね求める。本書の豊かさと面白さは、そのようなケースを六つ、歴史の中から選び出している点にある。すなわち毛沢東の国民政府に対する逆転、チャーチルによる英本土上空の防衛戦、スターリングラードの逆包囲作戦、マッカーサーの仁川上陸、サダトの第四次中東戦争、ベトナムの対米勝利の検証である。

 それぞれのケースがきわめて個性的であり、二度と起り得ない魅力あふれる一回性のドラマである。毛沢東のように「敵進我退、敵駐我攪、敵疲我打、敵退我追」の十六文字に自らの戦略の要点を集約して全兵士に暗誦させ、長期にわたる持久戦を通じて革命を実現した者もあれば、サダトのように強大なイスラエルに対して局地的勝利を瞬間的につくりあげ、それを一定の政治的目的の実現に結びつけたケースもある。チャーチルのように豊かな表現力をもって語りかけて国民を鼓舞する者もいれば、スターリンのように無気味なまでにおし黙って大事をなす者もいる。

 個性的な諸ケースでありながら、共通性もにじみ出て来る。何よりも大局をつかみ逆転勝利への不屈の意志を持つリーダーの存在が決定的である。彼らは与えられた歴史状況の中で戦略目標を強く示しつつ、戦闘そのものについては指揮官を選び任せ切る勇気をもつ場合が多いようである。自他の強みと弱みを鋭く認識し、全般的な強者である敵が全面的に力を発揮しがたい場を設定し、自らの限られた強さをもって敵の弱さを打ち破る戦略が、ほぼすべてのケースの急所であろう。

 戦争は政治の延長であり、政治の極限的表現形態であるといえよう。それだけに本書は戦争をもっぱら語っていながら、今日の政治の事例をも連想させる。たとえば、自らの強みたりうる郵政民営化という場へ政治全体を引き込んで大勝した小泉選挙も、靖国参拝を続ければ中国も従うに至るという自ら描いたシナリオが相手の反応によって覆されているにも拘わらず戦略を変えることができない状況も、本書を読みつつ想起せずにおれなかった。
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2005年10月22日

ロバート・オハロー『プロファイリング・ビジネス』

プロファイリング・ビジネス~米国「諜報産業」の最強戦略

米国で勃興するプロファイリング・ビジネス(個人情報の分析・販売)の実態をはじめてレポートした衝撃のノンフィクション。チョイスポイント、アクシオム、レクシスネクシス、セイシントなど、国防総省やFBIなどの政府機関をクライアントに急成長を遂げるプロファイリング企業のケーススタディを通じて、「監視社会」への道を突き進む米国情報社会の実相をドライなタッチで描く。CNNテレビ、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストなど著名メディアが相次いで絶賛した全米ベストセラー。

プロファイリング・ビジネス~米国「諜報産業」の最強戦略
ロバート・オハロー 中谷 和男
日経BP社 (2005/09/15)
売り上げランキング: 102,900
おすすめ度の平均: 4.5
4 いま そこにある危機 security or privacy ?
5 インテリジェンス(諜報活動)のアウトソーシング

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2005年10月21日

西部邁『無念の戦後史』

今週の本棚・本と人:『無念の戦後史』 著者・西部邁さん

 ◇「改革」ムードは重篤の状態−−著者・西部邁(にしべ・すすむ)さん

 日本の戦後60年を、著者の個人史と重ね合わせるように書き下ろした。今年は春に11年続けた主宰誌『発言者』を廃刊し、また、やくざになった中学以来の友人との交情を描いた『友情』(新潮社)も刊行した。

 どこか「回顧モード」なのか。そう問うと、「回顧(レトロスペクト)とは、未来の展望(プロスペクト)のためのものでもあります」。変わらぬ“西部節”で、さらりとかわした。

 外来の言葉の意味、用法に対するこだわりは深い。例えば、デモクラシーとデモクラティズム(人民主権主義)、ナショナリズムとステーティズム(政府主導主義)など、この本でも言葉に関する注意深い対比が随所に顔を出す。「哲学者の田中美知太郎は『言葉は必ず過去からやってくる』といいましたが、どんなに新しい物事を表現する時も言葉そのものは現在の発明品ではない。言葉の中心には伝統の形が含まれています」

 資料写真も多く、読みやすい本だが、教科書のように出来事を一本調子で記したものではない。憲法と天皇制、高度経済成長、日本的経営、市民主義者、ネオコンなど、独自の角度で切り取った34の章ごとに、むしろ事件や現象の背後に隠れた思想の流れを容赦なくえぐり出す。

 著者に「無念」を抱かせるものは、戦後日本を覆ったアメリカ的な個人主義の思潮と、大量消費社会の担い手としての「大衆」の存在だ。これ自体は年来の一貫した主張だが、アメリカを「個人の自由と技術の合理に価値を置く点で左翼国家と同じ」と見る視点などは、東西冷戦の崩壊から十数年を経た今、かえって若い世代には受け入れられやすくなっているのではないか。

 「固定観念は薄らいでいるかもしれません。しかし『改革』ムードの中の大政翼賛のような風潮を見ると、むしろ今の日本は重篤の状態に陥ったといわざるを得ません。10年後には急速に活力を失うのではないでしょうか」。悲観的なトーンも“西部節”の魅力の一つだが、より切実に響いたのが気になるところだ。

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『沖縄戦新聞』

今週の本棚・ブックエンド:沖縄戦新聞が「本」に

 この夏、沖縄県玉城村にある戦跡を訪れたとき、事務所に置いてあった新聞に驚きました。「沖縄戦新聞」。琉球新報社が当時の状況をいまの情報と視点で再構成した新聞です。

 それをまとめた『沖縄戦新聞』(840円)が刊行されました。といっても普通の本ではありません。04年7月から05年9月に連載された14号分の紙面60ページを増刷し、箱に梱包(こんぽう)してあります。

 じっくり読むと、当時は伝えられなかった戦争の実相に引き込まれます。1945年4月1日付の第7号。

 <本島に米軍上陸 兵員18万3000人投入 日本軍反撃せず 各地で「集団死」>という大見出しの1面。中面では捕虜になるのを恐れて壕内(ごうない)の避難民が火を放ち、多くの犠牲者が出た様子が生々しく描かれています。

 「生の証言を聞き取れなくなる時間は確実に迫っています。その危機感が原点でした」と取材班はあとがきに記しています。想像力をどうかきたてるか、その工夫にも感心しました。
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中川一徳『メディアの支配者 上・下』

今週の本棚・新刊:『メディアの支配者 上・下』=中川一徳・著

 陸軍経理将校だった鹿内信隆が、当時の人脈を使って、戦後、経済同友会の若手となり、財界の反共活動のためニッポン放送に送り込まれ、フジテレビと産経新聞をも支配。世襲人事をくりかえしたあげく、養子鹿内宏明が日枝久グループによって産経新聞会長を解任され、日枝がフジテレビ会長に就任。しかしやがてライブドアがフジテレビに介入。

 手に汗握るノンフィクションで、じつによく調べよく書いている。推奨に価する才筆。おもしろくてやめられないし、事実あっという間に読んでしまうが、残念なことに魅惑的な人物が一人としていない。戦後日本はそういう国で、とりわけジャーナリズムはそういう世界なのか。新潮ドキュメント賞、講談社ノンフィクション賞受賞作。

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アンドリュー・コビング『サムライに恋した英国娘』

今週の本棚:森谷正規・評 『サムライに…』=伊丹政太郎、アンドリュー・コビング著

 ◇百通の恋文が伝える「男爵イモ」の純愛

 北海道の農場事務所で、金庫の奥深くから一房の金髪が発見された。大正13年のことである。それから50年以上を経て、昭和52年に数多く積まれた蔵書の間から100通近くの英文の手紙が発見された。宛名はリョウであり、差出人はジニー・イーディー、住所は英国のグラスゴー市。1883年1月から84年6月の短い間に出されていた。男爵川田龍吉(りょうきち)には、秘められた恋があった。

 龍吉は土佐の郷士の出であったが、父小一郎が同郷の岩崎弥太郎の下で仕事をして出世して、父の意志で15歳から英語を学び始めた。やがて、船舶修理のために横浜に築いた三菱鉄工所の技術力を高めるために、英国への留学を命じられた。父が、来日していたグラスゴーの造船所のオーナーに息子の教育を頼み込んだのだ。1877年、21歳で英国に留学した。

 その留学は長かった。造船所の現場で実習生として技能を身につけ、工学の知識を修得するためにグラスゴー大学に学んだ。留学は6年目になった。勉学に熱心な龍吉はしばしば書店に足を運んだが、そこで女店員ジニーと知り合った。ジニーからの最初の手紙は、龍吉が探していた地図を購入する意志があるのかどうかを確認する簡単なものであった。二人はたちまち恋に落ちた。手紙の宛名は、カワダ様からリョウ様に、そしてリョウに変わった。

 ジニー・イーディーは1864年の生まれであり、龍吉とは8歳の開きがある。両親は織物工場に勤めていたが、父とは別れて母と二人でつつましく暮らしていた。とても真面目な敬虔な娘であり、書店に通うほかは日曜日に教会に行くだけの生活であった。龍吉は、毎週ジニーの家を訪問するようになった。

 ジニーの恋文は、純情そのものである。

 「リョウへ。あなたからのお便りを待ちこがれています。だってきのうの夜、汽車に乗れたのか、とても心配なのですもの。私は、たぶん今ごろあなたは暗く長い道のりをレンフリューまで歩いていらっしゃるのだろうと思いつつ起きていました。本当に間に合っていればいいのですけど。」

 ジニーに愛されたのだが、龍吉は健康がすぐれず、仕事は辛く、憂鬱な気分におそわれる日が少なくなかったようだ。

 「リョウへ。すばらしいお天気でしたね。こんな美しい日にあなたが悲しい気持になっていなければよいとおもいます。教会に行く途中、すべての人を幸せにしてあげたい気持でした。(中略)

 私の幸福における唯一の影は、あなたが恐らく部屋で悲しそうに座っているのではないかという思いでした。あなたが幸せでいることを知ることができたら、きっととてもうれしかったでしょうに。」

 「リョウへ。今夜は一人で部屋に座っています。母はもう床につきました。身体の具合がとても悪いのです。今夜はあなたのことばかり考えていました。考えすぎて、ほら、手紙の書き出しに水曜日夜と書くかわりに、あなたがここにいた月曜日の夜と書いてしまいました。」

 しかし手紙は、純情な気分に溢れたものから、切実な内容を含んだものに変わっていく。日本からの留学生と英国娘の恋の成就には、大きな壁があった。

 「いとしいリョウ。きょうは、あなたから前に頂いた四通の手紙をくり返し読みました。ああいとしい人、あなたをほんとうに悲しい気分にさせてしまいましたのね。

 あなたの前のお手紙には、はいとお答えします。あなたのご両親が承知され、母も一緒に行かせて頂けるのなら、もうぐずぐず言ったりしません。こんなに返事が遅れて本当にごめんなさい。だけど仕方がなかったのです。考えなければならないことがそれこそ山ほどあるのです。」

 明治の初期に、いとしい恋人と一緒とはいえ、はるか遠くにあって国情もよくは分からぬ日本に母を連れて向かうのには、想像を越えるほどのたいへんな決心が必要であったに違いない。若い娘の恋の力には絶大なものがある。

 1年半ほどの間にジニーが出した百通ほどの恋文の大半を読むことができる。長いもの、短いものさまざまであるが、異国に淋しく暮らす日本人への切々たる思いにホロリとさせられる。昔の純愛はこのようなものであった。毎週のように会っていながらも、深い思いを手紙で伝えたくなるのだ。恋文が恋には欠かせないものであった。そして手紙であるから、いまも残っている。二人の熱愛に思いを馳せることができる。

 熱愛むなしく悲恋に終わったが、それは龍吉が川田家の長男で、しかも小一郎は功績を上げて男爵に叙せられて名門になっていたからだ。異国の娘を嫁にするわけにはいかなかった。帰国した龍吉は造船技師として活躍したが、後に英国に似た風土の北海道に農場を開いて、ジャガイモの栽培を始めた。それが男爵イモである。

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北康利『白洲次郎 占領を背負った男』

今週の本棚・本と人:『白洲次郎 占領を背負った男』 著者・北康利さん

 ◇筋の通った生き方が教えるもの−−著者・北康利(きた・やすとし)さん

 GHQ(連合国軍総司令部)と渡りあった「従順ならざる唯一の日本人」、英国流のダンディズム……。戦後政財界での活躍は知られていても、白洲次郎はつかみどころのない人物と言われる。筋の通った生き方(プリンシプル)をどうして身につけたのか。新資料や証言を基に迫った。

 1902年(明治35)、次郎は富裕な綿貿易商の二男に生まれた。三田(さんだ)藩(兵庫県三田市)で代々儒官を務めた名家だった。中学卒業後に英・ケンブリッジ大に進んだことが人生の転機になる。

 「東洋と西洋が出会った。騎士道の流れをくむジェントルマンシップと武士道のよい面を吸収したと思います」

 8年の留学から帰国すると英字新聞の記者、水産会社の取締役を務める傍ら近衛文麿の側近グループに加わった。のちのエッセイスト正子と結婚したのも記者時代である。そして妻の縁で吉田茂と親交を結んだことが、次郎を時代の前面へと押し出してゆく。

 45年、政府とGHQとの折衝を行う終戦連絡事務局参与に就任してから、51年の講和条約調印まで。次郎の人生はまさに独立と復興のためにあった。中でも新憲法の誕生に立ち会った場面は印象的だ。

 <斯(かく)ノ如(ごと)クシテ、コノ敗戦最露出(さいろしゅつ)ノ憲法案は生(うま)ル。「今に見ていろ」ト云(い)フ気持抑ヘ切レス>(「白洲手記」)。単なる押し付け憲法論でないことは、いいものは素直に受け入れるべきだという後年の言葉にもうかがえるだろう。

 「次郎のプリンシプルと同時に、日本人に欠けたものを訴えたかった。憲法を見直すことは時々の価値観でふらついてきた戦後日本の歯止めになるのではないか」と話す。

 本書のきっかけは、父母の故郷・三田市の郷土史研究。周辺の記録を掘り起こし、次郎の近親者から貴重な証言を得た。証券マンの経験を生かして通産省創設など経済的な業績にも力を入れている。

 「占領の苦労をもっと伝えたい。次郎は沖縄を含めた基地のない講和を主張し、全国民と独立を宣言しようとした。格好よさはここなんです」

白洲次郎 占領を背負った男
北 康利
講談社 (2005/07/22)
売り上げランキング: 379
おすすめ度の平均: 4.92
5 憲法の制定過程に「この国のかたち」を見る
5 ゴージャスなバーバリアン
5 学生時代に出会いたかった本

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